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在宅医療(住み慣れた自宅)で最期を迎える

この写真はたんぽぽスタッフの母が今年5月に見た最期の故郷の写真です。

奥に見えるのは福江島の鬼岳。ここで5月にバラモン凧が揚げられます。いつか話題になった五島が舞台のドラマ「ばらかもん」。「ばらかもん」「ばらもん」五島の言葉で意味は「元気者」だそうです。「鬼に立ち向かう勇ましい武者のかぶと姿」だそうです。

在宅医療

話は急転しますが…

少々長くなりますがお付き合いください。

「在宅医療」この言葉を聞かれたことはありますでしょうか?

体調が悪くなれば病院に入院して、良くなれば家に帰る。

改善しなければそのまま入院を継続し、残念ながら病院で最期を迎えるというような流れをお考えの方が多いのではないでしょうか?

病院で最期を迎える。

やむを得ない場合もたくさんあります。

ただ…病院で最期を迎える方のほとんどが思っていること…

それは…

「住み慣れた家に帰りたい」

毎日、朝が来て

仕事や学校に行って、疲れて家に帰ってお風呂に入り、ご飯を食べ、テレビを観て、布団で眠る

これは大多数の方の当たり前…

「家に帰る」この当たり前が当たり前ではなくなることがあるのです。

病気になればこの当たり前だった「家に帰る」が切実な願いに変わるのです。

在宅医療というのは患者さんのそういった「家に帰る」「家で過ごしたい」を叶える1つの手段です。

少し話は変わりますが…

この写真は2024年5月末、五島列島で撮られたものです。

と言いますのも…五島列島…ここはたんぽぽスタッフの母が生まれ育った故郷です。

なぜ急に故郷の話?と思われるでしょう。

このたんぽぽスタッフの母は北九州市在住で昨年9月に末期がんの診断にて余命は長くないと宣告されていました。

抗癌剤治療などで入退院を繰り返し、今年2024年2月頃からは自宅にて大学病院に通院するかたちで療養中でした。

このスタッフの母親は定期的に故郷の五島に帰省していましたが、闘病生活にてなかなか帰省が叶いませんでした。

4月頃より、通院している大学病院の先生より在宅医療の先生にバトンタッチしていく旨を伝えられ、以降は自宅に在宅医療の先生が往診に来てくださり、定期的に訪問看護の方々に処置や薬の管理などのケアを受けることになりました。

このスタッフとしては、末期がんの診断を受けた時から、最期に家族で思い出を作るために母親のやりたいことを叶えたいと考えており母親には時折「何かしたいことはないのか?」と尋ねていたようです。

スタッフ個人的には最期に孫を含めた家族みんなで車で1時間ほどの近場の温泉旅行にでも行きたいとは考えていました。

本人は先が長くないことはわかっていたようですが、なるべく悟られないように尋ねる際も配慮をしていたようです。

ある時、母親が「五島に帰りたいね」とポロっと口にしたそうです。

しかし、がんの終末期の人が北九州から長崎県の離島、五島列島に行くとなるとそれ相応の準備と覚悟が必要でした。

離島であることから急変時の対応が難しいこと、また、遠方でもあるので道中に万が一のことがあることを理解おく必要があったのです。

ただ、本人が故郷への帰省を望むのであれば、旅行がてらと思い、どうにか連れて帰りたいと考えていました。

この話が浮上したばかりの時(2024年3月頃)はまだ大きな病院に通院という形をとっていました。

その時の主治医に帰省の相談をしたところ、正直あまり良い返答はいただけませんでした。

リスクが大きすぎるから…

この時はまだ自分の足で歩いて移動することができていました。

しかし、腹水が溜まったり、食欲低下から点滴を度々必要としていました。

その為、通院の頻度も高く、その度に待ち時間の長い大きな病院に行っては処置をしてもらっていましたが、徐々に通院もきつく難しくなりつつあったのです。

そういったことも含め、3月末頃から通院という話が出始めました。

同年4月頃に通院という形から、在宅医療に切り替わりました。

在宅医療に切り替わってからは在宅医の先生が自宅に診察に来てくれます。

体調が悪くなった時も在宅医の先生に連絡すると家に来てくれることになります。

※必要があればこの際に介護保険を申請することもできます。

介護保険には該当するかどうかなど細かく規定があるのでここではその説明は割愛させていただきます。

このスタッフの母は64歳ということもあり、まだ自分の足で歩くこともできていたので介護保険の申請は行わずに過ごしていました。

しかし、病状は徐々に進行し週を追うごとに歩けなくなりました。

急いで、介護保険を申請して

「介護用ベッド」「介護用マットレス」「車椅子」を介護保険にてレンタルしました。

加えて、息苦しさもあったため、先生からの自宅での酸素療法の指示もでました。  

話を戻すと…

この状況で五島列島に帰省することはできるのか…

正直…悩ましいところでした。

リスクはとても高く、本人もキツイ思いをするのは間違いないとわかっていましたが、このタイミングを逃すと二度と故郷には帰れないと思い、本人に改めて意思確認をしたそうです。

本人は揺るがす「帰りたい。最期になるかもしれないから父と母(スタッフの祖父母)に会いたい」と言ったそうです。

五島に帰省する手段としては

  • 北九州から自動車で博多港。博多港からフェリー。福江港からレンタカー。
  • 北九州から自動者で福岡空港。福岡空港から福江空港まで飛行機。福江空港からレンタカー。
  • 北九州から長崎港まで自動車。長崎港から高速船もしくはフェリー。福江港からレンタカー。

この3つの手段があります。

時間のみを考えると飛行機が早いですが、何せ車椅子で酸素あり。そして体調と体力面の不安あり。

病状を踏まえて検討した結果、自動車に乗っている時間が最も短く、横になれるなどの自由度の高い、①の博多港からフェリーという選択をしました。

スタッフはこれらを何度も検討した上で帰省させてあげる決心をして、在宅医の先生に相談をしたそうです。

福岡県博多港~長崎県五島列島福江港までを結ぶフェリー

中では個室もあり、自動販売機で軽食やアイスクリームの販売もありゆっくりとくつろぐことができる。

先生はリスクの説明をしてくれ、嫌な顔1つせず「行っておいで」と言ってくれました。

それだけではなく、フェリー会社に酸素ボンベの持ち込みが可能かどうか確認をしてくださり、その上「お守りに」と言って、「診療情報提供書」を封筒パンパンになる程に書いてくださり手渡してくださったそうです。

※診療情報提供書とは、他の医療機関などの先生にその患者様の病状や状況、治療内容などを細かく記載し、スムーズに治療が行えるようにしている書面のこと。

準備を整えている最中もスタッフの母親の病状は進行していました。

少し動くだけでも息切れがあり、とても歩ける状況ではなくなっていました。

足はパンパンに浮腫み、お腹もパンパンに張っている状況で、横になるのもままなりませんでした。

そのような状況ではありましたが、博多港から五島列島行きのフェリー、夜出発の朝到着の便に乗り、到着してからはレンタカーにて30分弱…決して楽な道中ではなかったはずです。

行きは無事に何事もなく到着。

スタッフの祖父母はやせ細ったスタッフの母親の姿を見て、最初は誰かわからなかったそうです。

しかし、久しぶりに会えてとても嬉しそうにしていたそうです。母親はきついながらもたくさん話をして楽しそうにたくさん笑っていました。

反面、祖父母はきつそうにされているスタッフの母親(わが子)を常に心配そうにしており、夜も眠らずに様子をみたりして気遣っていたようです。

本来であれば、久しぶりの帰省であったので2泊、3泊としたかったのですが…病状も病状であったため、弾丸ツアーにはなるが1泊だけで帰宅することを決めていました。

帰りもフェリーです。

帰りは朝出発の夜到着の便です。

フェリーに乗っている時間は約8時間。

帰りは疲労もあるため、かなりキツかったと思います。

そんな中でも、「疲れたやろ?ごめんね、ありがとうね。」いつもスタッフのことを気遣っていたそうです。

道中、幸いにも何事もなく無事に帰宅できました。

帰宅後、母親は「疲れたけど、行けてよかった。また行きたいね。頑張って良くならないとね。次は2泊くらいしたいね」と前向きなことを言われていました。

「次は2泊」この言葉を合言葉に前向きにまた闘病生活を送りました。

帰省前から食欲が低下し、少しずつ食事量の低下がみられていたそうですが、「また帰りたい」という気持ちから帰宅後は食欲ないながらもなんとか良くなりたい一心で頑張って食事を摂っていたようです。

しかし…

少しずつ病状は進行し、食事も摂れなくなり、衰弱し、ベッド上で過ごすことが多くなりました。

スタッフの母親は夫婦二人暮らしであり、夫の方は慣れない介護に疲労もみられていたようです。

スタッフも仕事終わりにはなるべく毎日実家に行き、顔を見せて必要な介護などはしていたとのことでした。

新型コロナウイルス感染症も今となっては、世間を騒がせる程ではなくなりましたが、それでもやはり病院に入院していれば面会制限などで会えることに制限はかかっていました。

ここが在宅生活の良いところで、住み慣れた家で共に過ごした家族といつもの時間を過ごすことができる。

在宅医療や介護に関わる人間としてここはとても大切にしたいとスタッフは言っていました。

五島から帰省後、ただひたすらに必死に「一日でも長く生きていてほしい」この一心で毎日を過ごし、スタッフの母親も「頑張って元気になりたい」という気持ちで頑張っていました。

が…しかし…

スタッフの母親は帰省から帰宅後2週間後に住み慣れた自宅にて夫、スタッフ、スタッフの妻、孫2人に見守られながら息を引き取りました。

穏やかな最期だったそうです。

夫とスタッフは「もっとしてあげれることはなかったのか…」その後悔は残っていたようです。

ずっとその後悔が残りながらも、お通夜や葬儀を終えて、参列してくださった方々へのご挨拶のご連絡をしている時に、スタッフの知人より

「自宅で介護して、看取りをされたこと。これはなかなかできることではありません。お母様は幸せだったと思いますよ」と声を掛けていただいたそうです。

在宅に関わっていながら自分のことになると、在宅療養ができることの幸せや喜びなどのプラスの方に考えることが難しく感じました。

してあげられなかったことばかりを数えてしまっていました。

でも、この言葉で

最期に故郷にキツイながらも帰省できたこと。

住み慣れた自宅にて、最愛の家族に見守られながら最期を迎えられたこと。

そもそも、きつい時期を病院の天井を眺めて過ごすのではなく、住み慣れた自宅で過ごすことが出来たこと。

ここに焦点を当てることで残された家族も救われることもあるのではないかと言っていました。

現実はやはり毎日介護をするということは厳しく、大変です。

とても家族だけではやり遂げられることではありません。

そこに在宅医療に関わる訪問診療や訪問看護、ヘルパーや訪問リハビリなどの手を借りることで在宅生活を継続することができます。

今回、スタッフ自身の身内がこのような状況になったことで在宅医療の素晴らしさと大切さを身をもって体感したと言っていました。

在宅医療は素晴らしい、大切だと我々が押しつけになってしまうのは良くないことだと思います。

病状や個人個人の考え方などによって病院での生活が良い場合ももちろんあります。

しかし、自宅で生活したいその気持ちがあるのであれば、その希望が叶う環境にあるのであれば、その気持ちを押し殺して病院や施設で過ごさずに専門機関に相談してみるのも良いと思います。

今回のこのお話が誰かの背中を押すことが出来るのであれば幸いです。

この記事を書いた人

北九州訪問クリニックたんぽぽ 訪問リハビリテーション部 理学療法士 中島

2009年に理学療法士免許取得。

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